ベルギー便り 07~ギズラン博士博物館と「Psyco Jazz」
2026年07月10日
7月5 日に、ヘント(仏語ではガン)のギズラン博士博物館(Museum Dr. Guislain)で開催されたイベント「Psyco Jazz」を見学してきました。ギズラン博士博物館は、ベルギー最古の精神科病院の建物を利用した精神医療史とアウトサイダー・アート/アール・ブリュットの博物館で、同じ敷地内には現在も精神科病院とリハビリセンターがあります。名前の由来となっている19世紀ベルギーの精神医学者Joseph Guislainは、精神医療改革に大きな足跡を残した人物として知られており、そのパイオニア精神は現在の博物館の姿勢にも受け継がれています。

「Psyco Jazz」は、芸術家集団Lucinda Ra との共催で2023年から始まった無料の3日間の音楽・パフォーマンス・参加型イベントで、今回が4回目になります。1975年にコロンビア大学で開かれた伝説的イベント「Schizo Culture」をヒントに企画されたというこの取り組みでは、博物館の中庭での即興性の強いフリー・ジャズを中心に、詩の朗読、映像上映、演劇、食事や飲み物の屋台、創作ワークショップなどの催しが繰り広げられます。共同企画者となっているLucinda Ra は、劇作家、ジャズ奏者、美術家などの学際的アーティスト集団で、2022年には「社会的に脆弱な立場にある人々の語りに対する参加型で敬意に満ちた実践」が評価され、フランデレン地域政府による舞台芸術賞 Ultima を受賞しているようです。
博物館のウェブサイトには、この催しが「区別やヒエラルキーのない、混沌とした世界」を生み出す場だと記載されています。また、博物館のディレクターのBart Mariusは、この試みを「徹底した包摂性を推し進め、精神的な困難を経験してきた人々の声を広く届ける」という博物館の近年の活動の一環と位置づけ、「この場所が背負う歴史の重みを認識しながら、活動を施設の壁の外へと広げ、対話と創造性のための共有空間をつくり出す」ことを通じて、「ケアを文化的な実践として捉え直し、精神的な脆弱さをめぐるスティグマに挑戦すること」を目指していると述べています。出典

その言葉の通り、見学した当日の演目の中にも、知的障害のある人や精神疾患のある人のための居住サービス施設Albe vzwの利用者と職員によるドン・キホーテを下敷きにした演劇や、ブルッヘ刑務所複合施設の受刑者とベルギーの著名なサックス奏者Jeroen Van Herzeeleらの長期にわたる共同ワークショップINMATE SESSIONSで生み出された音楽などもあり、属性にとらわれないフラットで自由な雰囲気に満ちていました。

そして何より、聴衆も含めて参加者が皆リラックスしてイベントを心から楽しんでいることに感銘を受けました。福祉施設の職員も利用者と一緒に劇を演じること楽しんでいる様子で、仕事として利用者を支援しているという雰囲気ではありませんでした。それはまさに「区別やヒエラルキーのない」世界で、1975年の「Schizo Culture」が目指した制度論的精神医療改革を彷彿とさせます。

飲み物を販売する屋台には、ベルギーらしく様々な種類のビールが用意されていて、それがものすごい勢いで消費されていきます。その屋台では、なんと2024年の「OFF-COMICS」展で一緒にお仕事をさせていただいた学芸員のYoon Hee Lamotさんと、以前のMadMuseéのディレクターで現在はフリーのアウトサイダー・アート研究者のPierre Muylleさんも仕事をしていて、偶然の再会を喜び合いました。博物館のディレクターのBart Mariusさんもその場におられて、地域の関係者や博物館全体がこのイベントを大切にしていることが伝わってきます。
博物館内では、ニューヨーク出身で南アフリカのヨハネスブルクを拠点に活躍する異色の写真家で、アール・ブリュットとも親和性の高いRoger Ballenのドローイングに焦点を当てた大規模な回顧展のほか、博物館のアウトサイダー・アートのコレクションの中からBallenが人物画を中心にセレクトした展覧会、ヘントで活躍する著名な文筆家で、活動の最初期にこの美術館に研究員として勤務していたErwin Mortierが独自の視点で精神科病院時代のコレクションや備品をアレンジした医療史的な展示が開催されており、そちらも見応え十分でした。コレクション展のセレクトにあたってBallenは、「これらの表現が持つ視覚的な真実味は、心の奥底にある自己の本質を直接的に示し、正気と狂気、秩序と混沌、芸術と本能との間にある従来の区別に揺さぶりをかける」とのコメントを残しています。ここでもまた、目指されているのは「区別やヒエラルキーのない」世界です。



中庭から聞こえてくる音楽に誘われるように展示室を出て、ひとしきりパフォーマンスとビールを楽しんでは展示室に戻るという循環のなかで、この博物館が目指す探究的な深さと外の世界へとアプローチする包摂的な広がりがしみじみと感じられます。ここに関わる誰もが、夏のヴァカンスの始まりをワクワクしながら楽しんでいる、そんな豊かな時間が流れていました。
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余談をひとつ。サッカーのワールドカップが開催されている現在、国際都市ブリュッセルでは様々な国のユニフォームを身にまとった人を目にします。ヨーロッパだけでなく、アフリカや南米のチームのユニフォームもよく見かけます。これは外国人居住率が世界的に見てきわめて低い日本との大きな違いではないかと思います。
フランス語圏とオランダ語圏が複雑に絡み合う重層的な統治機構を持つベルギーは、国としてのまとまりに乏しいとよく言われます(「行政的ラザニア」という比喩もあります)が、代表チームの試合がある日だけは特別で、たとえ深夜であってもあちこちの公園や広場やカフェにモニターが設置され、多くの人が試合の結果に一喜一憂しているようです。(現場に行かなくても、地元のメディアがその様子を大々的に伝えてくれます)。スーパーでは試合のある日にポテトチップスを一袋無料で提供したり(そうして自分の店で観戦用の飲み物や食べ物を買ってもらう作戦!)、野菜をベルギーの国旗の色で並べたりと、大いに盛り上がっています。

美術に関係ある小ネタとしては、今回のベルギーチームのアウェイユニフォームのデザインは、ベルギー近代美術の巨匠ルネ・マグリットの有名な鈴のモチーフで、背中の首元にはこれもマグリットにちなんで「Ceci n’est pas un maillot.(これはユニフォームではない。)」と書かれています。このユニフォームは現地でも大変な人気で、どこのショップでも売り切れ状態です。